男の顔

「男の顔」

 …お前だって、俺の苦しみはわからないだろう。俺にも、お前の苦しみなんかわかる筈もない。はぁ…、わかり合えないものか、人とは。お前に似て、俺だって苦しんだ。悲しんだ。一人、部屋で、明日(あさ)が来てくれないような弱音を吐いて、一人きり、苦しんだのだ。その時、一人の友人(男)も居なければ、ましてや女なんか、始めから居なかった。せめて、親は居てくれた。でも心は遠くの場所にあって、通わないままだった。俺はどうすることも出来なかった。だから、遠くへ行ってみようと思ったのだ。“誰も、相手にならない。”誰も真面目に話をしようとしない。皆、おちゃらけた仮面を被って、俺のことを見下して、遠退き、「勝手にしたらいい。」と台詞を吐いてどこかに行ってしまったんさ。女を求めてどこかに行ってしまったんさ。女は皆、否、始めから俺にとっちゃ意味のない存在だったのだから、どこにも居ないか。唯、幸せというものを見せ付けて、俺にこの世で苦しみを与える為に、そいつらは存在している。大変な迷惑だ。俺に母親が居ることで、責め辛くして立場を守っているのだから。ああ、惨った。悲惨かね。これは悲惨の光景なのかな。本当に全く、幸せというものを拝めない。人間てやつは、大変に欲深いものだ。俺は欲病に取り憑かれている。大変な欲病だ。きっと、この俺の体を一生かけて食い潰すつもりだろう。俺が「女」という幸せを掴むまで、それは続いて行くのかも知れない。以前、収まった。女と付き合っていた。しかし、愛してはいなかった。その前に、この俺にはきっと「愛」が無い。以前に、燃え尽きてなくなってしまったのだろう。本当に愛した人は、他人(ヒト)のものだった。やはり、俺は、入れない。この幸せのベールの中には入れない。何時、時間が経てば入れるようになるのだろう。幼稚なことと、思うかも知れないが、これは結構、真実として居座っているのである。やめることも出来ない。---

 誰も知らない、遠い土地へ行ってみないか、との忠告あり。ないであろう、土地。足のしびれの様に明瞭に、はっきりと、頭を悩ませ、心を悩ませて、俺を欲望の谷底まで落としてしまう。こいつは一体何者だ。何故、俺の目前に居る?罵声を浴びせたとて返事が返って来ぬ。何もならない。影も形もない。自然に、自分の一生をも見落としてしまう訳だ。これで何十年やって来たのである。拷問にも近い。その内でも、俺は笑って、見知らぬ他人(ヒト)と接して、行かなければならないのだ。悩みにも限度というものがあり….。未だ明日も続くのか。もう覚めてほしい。耐えられない。この懊悩を、人知れず密室の労苦を君は気付いているか。恐らく気付けまい。わかり合おうという気さえ示さないのだから。孤独に苛まれた一人の青年は、どこまで行っても孤独なのである。だから想うのだ。その孤独の内にて、つよくなろうと。他人(ヒト)を頼らないで、たった一人でも生きて行ける力を身につけようと。その為には金だ、と叫んで、その為には、一人で笑えるやさしさを、と呟く。又、その為には他人も入り込めない、自己満足を味わえる程の何かを身に付ける事を、と言う。女の幸せは、果して、俺の人生(みち)にはあるのだろうか。全てを解り合える女(とも)が。未だ、そんな様な女を見たことがない。俺が、女ならば…。顔は未だしっかりしている。女にでもなれば角がとれて、八方美人にもなれるのだろうか。未だわからず、てくてく山登りを疲れた二本の足は、我の目の前で震えて眉間に皺をよせねばまともに見れぬ程の有り様となっている。又、力を入れ過ぎかも知れない。文章がこわばって、見る気にもなれない。力を….。

 男の顔がある。見飽きたのだ。もう何重にも重なって男の顔が、俺のまわりを取り巻いて微笑む。その顔の内には、やさしさも、愛情も、美辞もあるのかも知れない。しかし、勝てぬものか。女の内に秘めた、男をも魅了するあの生粋の策略の毒牙には。女とは何か。男にとって、女とは毒か。毒気に当った男は、やがて体を追い回し、それを見た女から毒の牙の贈り物を貰い、自滅してしまう。女が愛だという輩も居る。きっと、母親を思い出した者がそう呼んだのだ。報われるところ少し。日々の生活には、女の正義は見えぬ。今の我の姿も醜かろう。孤独に落ちぶれた輩は、こういう手合いで以ても、苛まれてゆくのだ。男に生れた悲惨さ。

 

「ねらい」

 お前は何をねらっている?人の言葉の上に立つ華か。人の言葉か。それとも人から出る愛か。疲れる仕事を一気に投げ捨て、お前はどこへ向かおうとしているのだ。何も持たず、何も試練に対する準備もしないままに、そのドアを開けて、外へ出ようというのか。無駄なことだ。それは徒労である。人が人に受ける誉(ほまれ)というものは、幻の愛だ。お前は未だ、惑わされちゃいけない。ようやくわかりかけてきたところじゃないか。何が真実で、何が嘘か。どこまで行くのか。人の胸にねらいをつけて----。

 

「delicate」

 暗闇の中で、電球もつけずに、唯、ゆらゆら蠢いている光がある。それは命というもので、きっと人の形をした、人には想像のつかないままの、虚構である。何のきっかけもない。あたたまるストーブもなければ、あたためる電気も布もない。唯、衣服は着たままで、何やら外でゴオゴオ鳴り響いている風に想いを寄せているだけである。何の取り柄もなく、タバコを吸い、布団に入って寝付く。それが人間である。訪れる人あらば、通い合わない心を気にして、その人を偏見で重視し、自分の立場をも危なくしてしまう。髪の毛一本、この世にゆらゆら揺らめいている事が、気掛かりで仕方ないくらい、自分の悩みに埋没してゆくのだ。何か大きな力を以て、この人の姿をした者を変える事が出来れば、外の風も草木も何もかも、変わってしまう兆しを見付けるのではないか。人にはおよそ、その力はない。変わらず空気がその人を取り巻いている。そして人は呟いた。「来た、私の時間だ」。孤独に苛まれて、やがて中毒に犯されたその人の隣り部屋の住人が、ドアを開けて、とうとう出て行った。人の絆というものは、人には見えるものではなかった。その少し笑った微笑みは、その空気の中に溶け込んだかのように思わせた。もうその人は考えるのを止めた。甘い幻を欲しがった。