リフレイン

斜陽の内に立つ青年には、微熱があった。この青年にとって、人通りが激しいこの町の各通りを、立派な心境を携えて睨み、青年はポツンと立っていた。そこは、静岡県に在る、「伊豆の踊子」の舞台にもなった旅館福田家を望める界隈。文学時代に発表された川端の幼春が、その時、青年の良心をくすぶっている。青年には、それが嬉しかった。客を宿へと誘う為に建てられた丈夫な橋の上で、青年は、まるで塗りたての赤に体を支えて両手をつき、これまでの煌びやかな情景を、真下の岩露天の湯気に投げている。「黄金風景」を欲しがっている青年である。それに浸れば死んでもいいと思っている。人が寄って来た。白髪の初老である。白髪なのに、黒いローブのような長袖を内に着て、懐かれにくい風貌をしている。
 私には関係がない、といった様子で一定の距離を空けたまま立ち止り、青年と同様に遠くの景色を見ながら溜息を吐く。もぞもぞと懐に左の手を入れ、一葉の写真を取り出しながら、やさしい眼差を以て、現実の風景、写真の風景共に重ねてみているようだ。とっつきにくい情景はその男だけのものである、と青年は一念の内に考え始めた。無言のままで青年は、その老人の「声」を感覚で模索し始め、どうでも良いという態を持ちながらも、貰えるならばと、老人の行動に即席の糧を望み始めていた。その青年の、いつもの所作である。自分は惨めな「負け組」とかいう誰ぞの困惑が為した最低な枠に在る。これ以上失くすものはないと、自棄による算段がその身の体裁を変えていた。他の通行人は誰一人として、その老人の方を見なかった。不意にこちらを振り向く女もいたが、老人ではなく、先にいる自分を見ていた。彼等の視線の在り方には、まるで前方にいる老人を見透かしているかのような冷たいものがあったのを、記憶している。青年は少し、熱が気になって、自分の額に右の手を当てた。「早くしてくれ。何なんだ。」と思っている内に、その老人の方では、答が出ていた。くしゃくしゃに折り畳まれた一ドル紙幣だった。その老人は、その青年の事を、乞食か、浮浪者のように思っていたようだった。それ等の内容は、その時の老人の行為により、一目瞭然に、青年に悟らせた。闇雲に考えていると、先程から淀んでいる雲から雨が降って来て、老人が手に持っているその紙幣は、一段と、萎びて、ちぎれるくらいに風に吹かれた。青年は一言呟いた。「一体、何の真似です?私が乞食か浮浪者にでもみえたのですか」と。すると、老人はすぐに青い顔をして、青年の両の目を見詰め、「お前は、必要であろう。お前には、これが必要であろう。一ドル紙幣には…」そこまではっきりと聞き取れたが、後はなにやら独り事をぼそぼそ言っているだけの様子で、何も意味を為さなかった。「いいえ、必要ではありません。おじいさんは何か勘違いをされているんです。僕にはこの通り、ベージュのコートを買うお金もありますし、ほら、革靴を買うお金だってあるんです。見たでしょう。さぁ早く、立ち去りなさい…。」半分、苛立ったような、諭すような、面持で、その青年は、はっきりと応えた。すると、老人は、「誰にも忘れられぬ過去がある。お前さんは、この空の向うの事を考えた事があるか。私には、いたたまれない過去があった。だから誰でもいい、話すのだ。話して、話して、気が紛れれば、それで良いと思っている。それで、君に、話しかけた。誰でも、お金を散らつかせれば、少しは(その場に)止まっていてくれるだろうと思うてな。」と淡白に、言い返して来た。少し、むっとした青年は、「あなた、まさか、そんなつもりで私を引き止めたのですか?それは、困ります。自分の満足感のためだけに、お金まで散らつかせて人を馬鹿にするなんて。失礼ではありませんか。もはや、そのお金には何の意味もありません、重みのない紙幣は、重みのないあなたと一緒に、帰るべきです。人を馬鹿にするのは止めた方がいい。」と、言葉の流れに焦りを保ちつつ、早口だったが、言い放つ。その後、その老人が、どんな表情(かお)をしたのかさえ、見ることもしないで、青年は向う向いて黙ってしまった。老人は、少し黙って、暫くして、再び歩き始めた。老人が歩いて行くその先には、ペソと呼ばれる川が流れており、老人の足は自ずと、そちらへ向っている様であった。「ペソ」とは、その青年の心中で咄嗟に付けられた、その老人の為の川の名前である。青年は先程から熱くなってきた額を覚えて、又額に手を置いた。若干、高く成っている。この熱をどうすれば冷ます事が出来るのか、ハラハラ算段しつつ、その老人の行く方向に、一歩ずつ、歩いて行った。行く道が、この老人と同じなのである。雨が次第につよくなってきた。しかし、傘をさす程のものでもない。その証拠に、青年は折り畳み傘を、右手に持つ鞄の中に入れていた。その老人と、自分が行く先に於いて、或る雰囲気を破るような声がしたのを、聞いた。老人は、少し、立ち止ったかと思うと、又、急ぎ足で、その大声のした方へと歩いて行った。否、小走りといった方が、良いかも知れない。青年も、野次馬根性の陰で気になり、その老人の跡を追った。すると、その川の上には橋があり、そこに、不自然とも思われる人だかりが在った。その群れに紛れて、橋の上から見下すと、猛る川の内で、ぬいぐるみを手にしたまだ小さい男の子が、溺れていた。川は濁流で、とても、一決心により飛び込めるような穏やかさではない。その内に先程から降る雨が、益々強く降り出した。向うの岸に、上着を脱いで、ロープを持って、その子供を助けようとするレスキューの姿が在った。その子の母親とも思われる女(ヒト)は、そのレスキューの何人かに取り押さえられながら、取り乱さないようにしていた。けれど、その女(ヒト)の嗚咽は、この周囲に集う人の殆どに聞えていた。助けようとはしているものの、色々と準備があるようで、もたついたレスキューは、一度、躊躇した。その一瞬に胸を高鳴らせた、さっきの老人は、いつの間にか、その群れの一番前まで出ており、上着(ローブ)を脱ぎ捨て、身を翻すように、手前の橋から飛び降りた。そこにいた皆は、一瞬、はっとした。何かを感じたのである。その人だかりのどこかで、赤ん坊の泣く声がする。それを、じっと見つめていた母親が、恐らく、傘をずらしてしまって背中に背負っていた自分の子供の事を忘れていたのだろう。子供をあやす母親(女)の甘い声がする。
 どぼん!という轟音と共に、老人の体は、みるみる、流れて行って、その男の子がいる岩辺の淵へと辿り着いた。その岩場のかすかに出っ張ったところに、子供は手を引っ掛ける状態を以て、流れに逆らっていたのである。老人は着くなり言った。「そのぬいぐるみを放せ。そしておじいちゃんの肩に掴まれ!」、しかし、子供は、ぶるんぶるんと首を横に振った。そのぬいぐるみは、その子供にとって大事なものだった。自分の身が奇跡的に助かったのはそのぬいぐるみのお陰だと、子供は信じていた。老人はとりあえず折れて、その子供を自分の方へと引き寄せた。すると、老人が飛び込むのを見て感化されたのだろう、身の太い男と、小柄な男が、二人纏めて、川へ飛び込んで来た。助けてやる、と言うのである。ようやくレスキューは準備が整って、隊員は慎重に、段々、流れが早くなる川を渡り、子供と老人がいるその岩場まで行こうと努めた。そのレスキュー員の後ろから、ボートが来ていた。その子供を助ける為に、四人の男が川に飛び込んでいるのは、もはや、紛れのない事実だった。ようやく、レスキューのボートが辿り着いて、救助に努めた。その子供は、結局、助かった。汗か、水しぶきかわからない、頬や体の水滴を、残った男達は、手早に拭いている。先程、川へ飛び込んだ太身の男と、小柄の男は、結局、ボートに引き揚げられた。レスキュー員と、子供と、その男達二人が、ボートの上に乗っている。そして、最後に、レスキュー員が、丁重に、その老人に手を差し伸べた。しかし、その老人は、持っていた岩辺から手を放し、その差し伸べられたレスキュー員の右手にさえ捕まらないで、上流から来る凄い濁流に押されて、その体は流されて行った。周りに集まった野次馬達は、一体、何が起ったのかわからず、一度、見ない振りをした。しかし、(助けられた)子供は、それをしっかりと見ていた。「おじいちゃん…」かすれながらも、震えたその子供は、精一杯に叫んだ。老人はまわるようにして、川下へと、黄土色した水泡の彼方へと、姿を眩ませていった。暫く、立ち止り、川下へ走って行ったレスキュー員もいる。とにかく、四人を乗せたボートは、その母親が待つ向うの岸へと帰って行った。しかし、その子供と、その子供の母親の心の先は、わざと手を放したのだろうか、流れて行った老人の姿を追っている。何もかも、わからなかったが、その子供は、予測する事を知っていた。