リフレイン(3)

「今頃、丁度、身元の確認をしている筈ですが、何分、何も持っていなかった様子であって、どこから来たのか、何しに来たのか、目的さえもわからないんです。そう、あなたは確か、あの老人が亡くなる前に、話をしていたそうですね。目撃証言がありました。女の人で、橋の上の二人を見た、と言うんです。あなたとあの老人の二人ですよ。何か、親しそうに物を見せ合いながら、老人はあなたに、何かを見せていた、と。そう、あなたがあの時のもう一人なんですね。話を聞かせて貰えませんか。」否応なく青年は、警察署へと引き連れられた。手を放して欲しい、と言わんばかりに、袖を振りながら、三人の護衛に守られて同行して行く。日差しが滅法つよくなってくる、山道でのこと。まるで何かに、すべてが組まれたような、自然の流れを感じてはいた。

(K)「どうですか。まだ思い出せませんか。あの人はどんな話をあなたにしていたのです。細かく話して頂きたいのです。」
(青年)「….。どう、と言われても、何分、昨夜は、酒を呑んでしまいましたから、よくは覚えていないんですが。でも、一ドル紙幣を持っていました。その紙幣を私に見せて、自分の話し相手になって欲しいと…。私は、少々、疲れてもいましたから、その態度が腹立たしくて、注意をするように、あの老人に言いました。そんなことはしないで欲しい。するべきじゃない。等と。」
(K)「そうですか。その一ドル紙幣は本当に一ドル紙幣でしたか?」
(青年)「…、どういう意味です?」
(K)「いや、だから、その紙幣は紛れもなく外国為替の一ドル紙幣だったのですか、と訊いておるのですよ。あんた、こんな所へ来る初老の老人が、一ドルなんて持っててもしょうがないでしょう。使い道もないのに。他の物だったんじゃないですか、例えば、ここいらの地図だとか、誰かに渡す筈の手紙だとか、はたまた、日本円じゃなかったのですか。その紙は。」
(青年)「いや、一ドル紙幣でしたよ。ええ、あれは覚えています。一ドル紙幣でした。私が言うのですから間違いないですよ。」
(K)「って言っても君ねぇ…。」
(青年)「いや、何故、あの時居なかったあなたがそんなことわかるんですか。私はあの時、彼に差し出された一ドルを見たから、あれは一ドル紙幣だったと言ってるんですよ。端から疑うのはやめて下さいよ。私には、嘘を吐く理由等ないんですから。」
(K)「わかったわかった、じゃあそういうことにしておきましょう。興奮なさらずに。では、どんな内容の話でした?あなたとその老人がしていた話です。」
(青年)「だから、どんなと言われても、さっき言ったくらいしか..。唯、あの人は、話し相手が欲しかったらしくて、たまたまそこに居た私が選ばれたようなものです。私が、あの橋で、たまたま、近くに居たものだから。だから、私に話し掛けて来たのでしょう。そのくらいしか思い付きませんが。」
(K)「いや、経過はいいんですよ経過は。内容を教えて欲しいんです。どのような内容の話をあなたと、あの老人はしていたのか、という事です。簡潔でもいいから言って下さい。」
(青年)「はぁ….。確か、この一ドルは君には必要だ、君はあの空の雲の向う側の事を考えた事があるか、だとか、私は、話して話して、んー、なんだっけな、あ、気分が良くなればそれでいいんだ、と、何か、要を得ない事を話していたように思いますが…。」
(K)「(ファー、といった感じで上体を仰け反らした後)いや、要を得んのはあなたのほうですよ。そんな話をする人が在りますか?うーむ、何かを隠しているんじゃあるまいね、君は。君の言う言葉からは、自然の成り行きというものが見えてこんのですよ。すべてを自供して下さいよ、すべてを。」
(青年)「(自供という言葉に敏感に反応して)自供って、それじゃまるで私が犯人扱いされているようじゃないですか。何も疾しいことをしていないのに、どうして自供なんて言葉が出るんです?いい加減にして下さい。もう帰して下さい。」
 
 青年は、途中まで成り行き任せに応えていたが、犯人扱いされかけている自分の状態を弁護するが如く、警察の人間に敵意を投げた。Kというのは上がりたての警部補であり、手柄を立てたい一心で、この事件を担当していた。「身の程知らず」も彼の前では根負けをして、その昇進へと後押しする為、異彩を放ち、或る種の無敵を見せていた。大学を卒業しているが、一流ではない為に、キャリアを掲げて邁進しており、十年間もの従事に努め、その内二年が効を奏して昇進に至る、と、所謂、順風した経歴を持つ。現場を指揮する警部補として、何が何でも解決しようと躍起になりつつ奔走していた。青年は、そんな彼に、捕まってしまったのである。後には退けない苦しさが、青年の心に明かりを灯す。

(K)「わかりました。ではもう帰って結構ですよ。いやぁー、色々と御免被りました。いやいや、失礼しました。あなたの潔白が晴れましたから、もう、付き纏いませんよ。」
突然にして、態度を改め、青年は返される事となった。否、別のところで進展があり、事故死であるとの一報が、入って来たのであった。少々、呆けた顔して青年は、ではこれでと椅子から立って、署を後にした。「事故死」、この言葉が重く、何故か不意にも心に残り、青年は、ついお辞儀して、自分の宿へと引き上げた。青年はあの老人の顔を思い出そうと、追想しながら反省するが、一つの事しか考えられぬ。あの老人の自分に対する目的とは何だったのか。本当に唯、話し相手を探していたのか。それだけだったと言えるのか。何か他にも、鬱蒼とした茂みのような懊悩が、隠されていると考えてしまう。時々やつれた自分の頬を、鏡に映して見る時がある。苦労もないのにこのこけ具合はどうしたものかと、煩う日々が、暫く続いた。きちんと三食食べるのに、此の頃自分は自棄の輩と半ば決め付け放蕩しており、ところどころで駆逐の糧を背負う傍ら、決っていつもの自答が始まる。あの問題もこの問題も片付いたのに、それでも何か、足りない気がして、遠くの山や、遠くの川を、眺める癖が、いつしか自分に付いたのをどこかでしっかり享受している。これが良い事なのだ、と言い聞かせるが、「天城峠に近付いた…」、白い文句が自身に打ち勝ち止まることを知らぬ為、てっきりかけがえないものと錯覚覚えて右手を伸ばす。その先には、あの子と老人が手招きしている自然の気質を、どこかでうっすら、期待している。宿に着く頃、仲居の一人が、自分の帰りを待っていたのか、そわそわしながらこちらを見ていた。自分の姿が遠くに在っても気付く頃、手を振りながら駆け寄って来る。それまで水仕事をしていた様子で、膝の辺りが少々濡れていた。
(仲居)「どこへ行ってらしたのですか、探しましたよ。急にお出になられて帰って来ないのですもの。鞄は部屋に置いたままだし、宿賃だってそのままですし、もしかしたらと心配しました。どこへいらしてたのですか?」少々、どぎまぎ笑顔を見せて、真面目な目付きで尋問してくる。
(青年)「いやぁ、随分と遅くなったものです。あれからもう、三時間も経っていたとは、自分にはもっと短い気がして、はぁ、申し訳ございません。ですがこちらもお客ですから、そんなに一々断らずともいいものだろうと思いまして、ゆっくり、てくてく、帰って来ました。いや、唯、ちょっと、昨日の事が気になりまして…。」青年の心は少しばかりか、安心しており、老人の事も、子供の事も、いっそ他人の事だと、楽観していた。しかし途端に、曇り空から雨が降り出し昨日の事を彷彿させられ、宿の戸口を入る手前で、大きく小さく、溜息吐いた。小春日和が次第に崩れて、気付く間もなく曇天となり、ゆっくり帰った事が奏して移り変わりがわからなかった。
(仲居)「まぁ、あいすみませんこと。そうでしたわね、ここのところ、手提げ銭奴が多くいまして、そのため少々不審に捕らわれ、お客様さえ疑う癖が付いたようです。申し訳ないです。こんなこと、普通はないのでしょうけど。」頭をかきかき、そそくさと、青年の靴をぱっぱっと払って、下駄箱に置く。
(仲居)「お食事でしたら、もうすぐすれば出来上がります。お部屋でくつろぎ待ってて下さい。すぐにお持ちしますから。」笑顔を一層明るく見せて、仲居は少々照れながら奥の座敷へ姿を消した。青年は、程良く濡れた背中に手をやり、なにはともあれ良かったと気持ちを少々落ち着けてから、二階の部屋へ、上がって行った。濡れていたのは汗である。その時同時に意外な気持ちを感じてもいた。その日はそれから雨だった。

 轟々と、音はそれから一層激しく高まり続け、青年の部屋まで揺さぶっている。何度も手にした本、何度も手にした文句、何度も手にした案内書きも、今はすっかりくたびれており、青年の前では表情が暗い。青年は今も、一作家を愛読しており、苦しむ時も、快楽の日も、変わらず胸に仕舞い込み、一読一音、没頭していた。「雪国」等は故郷の歌で、「伊豆の踊子」恋人の歌、「晩年」終生忘れはしまいと、いつのまにか、乱筆振舞う自暴の術は、それ等の歌を吟味していた。赤茶けた便箋一枚取り出して、さっきの仲居を描いてみる。線をぷるぷる震わせながらなかなか上手にかけないで、それでも苦心、ついでの花と、ぼんやりしながら描いてみる。間にトイレに二、三回、仰向け一回、まごつきながら過す青年。とりわけ最近のものにしては、上手なのが描けた。「こもりのたけ」に似ていた。あはは、と笑って、又仰向けになった。天井で何か音がする。雨が走る音かと思ったが、揚々聞けば違う様子で、「ころころ」の音に変わって行った。鼠の走る音。古都の響きは良いものであり、誰も彼もが憧れる。随分ちっぽけな町の彼方に、自分は随分長いこと、過していたもの。歪みのない日常を生きていたいとは思ってみても、寸分狂わず撃たれる正義がそのまま自身の弱みと変わり、とぎれとぎれに闊歩を見出す。忠義の変わり身は見馴れたものだ。奥深い懊悩の破片を今でもずっと、かみしめている。そんなものどこかへ飛んでしまえとかわるがわるに言ってはみても、現実通りに進展してゆく。特許は取れそうにもない。歪んだ口元、あじけなし。両翼のついたこの背中で、この世界を羽ばたけるかしら。どこまで行けば一糸纏わぬでも立派になれるのかしら、快楽文士は今日も又、いつもの徒労に拍車を掛ける。今、あの老人は自分にとって天使であったと、笑顔を以て大言出来る。どこまで行っても追い付けないのは、これまで夢見た「黄金風景」を両翼震わせ飛んでいるから。捕まえられない自分の弱みに、太刀一筋をも浴びせられない可憐な不出来が、持論の内にて輝き続ける。金で心が買えるものなら、外国人にも引けを取らないオープンな術で君の心も買いたいものだ。いや、きっと、出来ないだろうね。